由緒と歴史

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御由緒・歴史

社号碑

明治40年の松尾稲荷。鳥居の傍の大樹が正成公縁の松の大樹。人の大きさと比べてみると如何に大きな木だったかがわかる。

当社の現在地は、旧湊川の堤防上でした。現在の湊川は河道三変したもので、南北朝時代の湊川の合戦当時は、会下山の東麓から南流して湊川神社の西側を流れていました。これを正成公戦死の記事のある「太平記」に見ますと、『一方ニハ楠判官正成、ワザト他ノ勢ヲマジエズシテ七百余騎、湊川ノ西ノ宿ニヒカエテ、陸地ノ敵ニ相向フ』とあります。この時に、正成公は堤防上に立っていた松の大樹を目標にして、一族郎党の集合を命じ、一同が肌身につけていた神仏の護符が血に穢れるのを嫌って、その松の木の根元に祀られていた稲荷の祠に護符を納めたといいます。その松の大樹は、枯れたため大正三年の社殿造営に伴って伐られ、現在は残っていませんが、正成公ゆかりの松であったわけで、この松の木にちなんで「松尾稲荷」という社号になりました。当社の御創建は不詳ですが、この事から、正成公戦死の延元三年(1336年)には、既に当地に祀られていたことがわかります。当社は太平洋戦争までは福原遊郭が近くにあったため、昼夜を問わず多くの酔客、芸妓、カフェの女給たちの参詣で社頭は賑いました。そのせいか、本来の商売繁盛の御利益に加え、覆殿に数多く吊られている奉納提灯にちなみ、『提灯持ちのお稲荷さん』と呼び親しまれ、縁結びの神としても篤い信仰を受けています。
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